天誅組と高取城攻め

天誅組とは

(1) 1863年8月14日、中山 忠光をリーダーとする尊王攘夷 急進派が天誅組を結成した。彼らの結成目的には大和行幸や倒幕の軍儀を妨害させないことが含まれる。
つまり、天誅組には大和行幸の霧払いをする目的があった。彼らは大和の幕府直轄地(天領)を占領し、人民と土地を朝廷に献上する計画を立てていた。


(2)大和行幸の意義

①8月13日、朝廷が大和行幸を発表。大和行幸の詔には『今度攘夷御祈願の為、大和国行幸、神武帝山陵・春日社等御拝、暫く御逗留御親征軍議あらせられ、其上神宮行幸の事』とある。

孝明天皇は攘夷祈願のため神武天皇陵・春日大社に参拝後、しばらく大和に滞在。親征軍の軍議をした後に、伊勢神宮行幸する予定だった。

②だが、8月18日の政変で全てが瓦解する。
これは、尊王攘夷の思想を持つ過激派を宮中から追放したクーデターである。会津藩薩摩藩は、御所に通じる九つの門を閉ざし、宮中に参内する許可の無い者の通行を禁止した。

同時に朝廷は大和行幸の延期を決定。長州藩が担当する堺御門の警備を解き、長州藩士の京都滞在を禁止し、三条実美ら急進派の参内禁止を発表している。
天誅組大義名分を失い、一夜にして討伐対象となった。

(補足) 1863年3月11日、孝明天皇賀茂神社行幸。4月11日にも岩清水八幡宮行幸した。共に攘夷成功を祈願している。もし、大和行幸が成功していれば三回目の行幸になったであろう。


(3)天誅組が五条に行くまでの経路を示す。

8月14日、天誅組38名は京都 方広寺(大仏殿)の道場に集合。伏見で船に乗り、淀川を下って大阪に向かった。
8月15日、船は大阪の堺に上陸。一行は高野街道を通って河内の狭山に入る。吉村 寅太郎は狭山藩の家老2人と面会。忠光は富田林の水郡宅で一泊する。
8月16日、一行は富田林の甲田から三田市に向かった。三田市では油屋に宿泊。8月17日、河内の観心寺で参拝後、千早峠を通って五条に到着という流れになる。



⚫五条代官所 襲撃について

(1)襲撃の概要

8月17日、天誅組は五条代官所を襲撃する。
ゲベール銃隊を率いる池内 蔵太、砲兵隊長の半田 門吉が空砲を発砲。槍隊長の吉村 虎太郎と上田 宗児が表門から突入した。彼らは代官の鈴木源内を含む4人を斬首する。
木村 裕次郎は逃亡に成功するが、天誅組の追跡に観念して切腹。木村を含む5人の首は櫻井寺の手水鉢の上に晒された。


(2)なぜ、天誅組が五条代官所を襲撃したのか

①五条代官所が支配する7万1000石を朝廷に献上するためであろう。また、代官所は警備の人数が少なく、難易度の低い目標だと考えられていた。
また、代官所を攻撃するという意外性を持った奇襲の原則が功を奏したと言える。

②ここで、天誅組が発表した布告に注目しよう。私が注目した所は、今年の年貢を半分にすると宣言している部分だ。これは人民の支持を得るには手っ取り早い方法であろう。


(3)天誅組が五条代官所に火をかけた理由

幕府支配の象徴を破壊したかったのではないかと推測している。彼らは新たな時代の幕開け、幕藩体制の終わりを夢見ていたのではないだろうか。




⚫北畠の回想談

北畠 治房は『五条に来た時、わずかに火縄銃5挺、ゲベール銃5挺を持っていただけだった』と回想している。大正4年の10月31日、北畠が五条に来た時の回想談から引用した。

北畠は、櫻井寺の手水鉢の上に戸板が載せてあり、5人の首が並べられていたと回想している。他にも、代官所の箪笥から元字銀14枚を入手したと語っている。(天誅組の研究 P37)

余談だが、藤岡 長和が祖母から聞いた昔話がある。藤岡家の下男だった伊平が騒動を目のあたりにしたそうだ。伊平は町家から戸板1枚を外して、首5つを櫻井寺までかついで行ったという。(天誅組を見た話から)



天誅組の武器について

(1)天誅組は使者を送り、武器の提供を求めた。

狭山藩はゲベール銃10挺、槍15本、甲冑10領を提供した。「大和日記」によると、吉村 虎太郎が使者として陣屋に乗り込み、家老2人と面会したという。

②下館藩の白木陣屋は10匁火縄銃2挺、馬1匹、弓矢2挺を提供した。
「大和日記」には、高取藩が馬2匹、鉄砲30挺、槍30本を提供したとある。高取には那須 信吾が使者として赴いた。

また、御山村の北 厚司は二百目の青銅製大砲、槍3本、10匁火縄銃2挺を提供した。

(2)ここで注目したいのは天誅組が洋式銃を保有していたことだ。「堺鉄砲研究会」によると、天誅組はイギリス製の雷管式ゲベール銃を所持しており、初めて実戦で使用されたと主張している。
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⚫木砲の製造

(1)木砲の製造には林豹 吉郎と安岡 嘉助が関わった。木砲は丸太を割って中をくりぬき、竹のだがをぐるぐる巻きにして補強したものである。「南山踏雲録」によると、一貫目玉7挺、二貫目玉5挺を作っている。

(2)北畠 治房は『林豹吉郎は生の松の木で大砲を作った。何でも13挺はできただろう。恰も花火筒そのままじゃ。作った大砲は間に合うものが一つもなかった。皆松ヤニが吹き出てどれもこれもブスブスとなってだめであった』と回想している。(天誅組の研究 P65)
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高取城下に侵攻するまでの経路

(1)天誅組は五条を出発後、中街道を通って重阪峠(御所市)にたどり着いた。彼らは重阪峠で高取藩士の西島 源左衛門を捕らえている。
西島は高取藩の間者 (スパイ)で、天誅組の情報収集にあたっていた。天誅組は西島を厳しく問いただし、斬首した。

(2)天誅組は御所市の戸毛 (近鉄 葛駅の近く)に進み、大乗寺軍儀を開いている。会議の結果、約束の米100石を提供しない高取藩を攻める事となった。
約1000名が高取町 薩摩の木の辻を経由し、城下町へと迫る。両者は高取町の森 (高取中学校とリベルテホール)付近で激突した。



天誅組の失敗

(1)天誅組の敗北の原因は、戦術と武器の不足にある。

①高取藩の勝利の要因は2つある。

1つ目は、大砲と鉄砲を小高い丘に設置し、天誅組に集中砲火を浴びせたことだ。高取藩は打撃力と火力の点で優位にたっていた。
高取藩はボートホイッスル砲を2門、ダライバス砲を5門保有していたという。藩は鳥ヶ峰(高取町役場)には大砲4門と銃20挺を配備し、土佐神社(国府神社)に銃隊と槍隊を配備する戦術を取った。

私は、砲兵火力と地形を生かした戦い方が勝利の要因だと考えている。地の利を得た高取藩が勝利を得たのは当然の結果と言えるだろう。


2つ目は、高取藩の士気の高さにある。
高取藩の武士の数は200人程度と少なかった。だからこそ、用意周到な準備と砲兵火力が勝利を導いたと言える。
もし、天誅組高取城まで攻めたとしても落城は不可能だろう。高取城の連結式縄張りは堅固で攻めにくい。(山城に平山城の構え)



天誅組の敗因

一方で、天誅組は数を頼みにしていたため、統制が取れていなかった。幹部は恐怖心に囚われた十津川郷士を制止できず、敗走する破目になった。郷士は稲田や林に逃げ込んだと伝えられている。
人心掌握ができない天誅組が敗北したのは当然の結果と言える。しょせん、彼らは烏合の集まりに過ぎなかった。天誅組は敵情と地形の把握すらできず、敗退している。


(2)敗北の一因は、数の主力を占める十津川郷士に食料や水を与えなかった事にある。
8月25日、十津川勢約960名は大和の南部から天辻峠に集合。翌日の26日には、五条まで6里(24キロ)の距離を移動し、4里(16キロ)の距離を費やして高取城下まで移動している。

十津川勢は1日に10里(40キロメートル)を移動している。これはフルマラソンの距離に等しい。天誅組は十津川勢を数の頼みにしていたにも関わらず、軽視していた。不眠不休の状態で夜を走らせるのは酷と言えるだろう。


天誅組は決起直後から武器が不足していた

道中で各藩から武器を徴発したものの、数の不足を埋めるまでには至らなかった。十津川には道中から切った竹槍で武装したとの言い伝えがある。


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⚫文献から天誅組の行動を探る。

大和日記(河内長野市ホームページから)

8月20日
『土佐那須信吾、高取の城主植村駿河守江使者として罷超。此節勤王の義兵入用の為、鞍置馬二匹、米百石、槍百筋、鉄砲百挺、甲冑百領、大小百腰献納可致す様との御使者なり。駿河守小藩の事にて右の通りの献納出来兼、馬二匹 鉄砲三十挺 槍三十筋献納に及へく。米の義は追々百石高献米可士段、受書差出せり』

(意訳)土佐出身の那須信吾は、高取城の植村に使者として参った。那須信吾は「勤王の義兵が必要になったため、米100石、槍100本、鉄砲100挺、甲冑100領、大小(日本刀・脇差し)100本を献上するように」と要求した。高取藩は「我々は小藩だから右の通りに献上できない。馬2匹、鉄砲30挺、槍30本を献納する。米百石は追々届ける」と返答した。



8月26日(都合により二分割)

『六時頃、惣軍進発、道法五十丁、高取城下に攻寄る。城は山上に有、城より五十丁下も土佐と申所に館有、常に駿河守采に住す、此所ニ家中町有て城下と申すなり。彼方にも備え有て頻に大砲・小砲打かくる。味方の先手鉄砲つるべかけて打ち放し、敵勢三人討死しける。煙の下より進め進めと頻に大将軍下知し給へ共、一筋の小道にて敵は小高き所に有、道に兼ね見へたる所』

(意訳)6時頃、軍が出発。道のり5.45キロメートルの高取城城下を攻める。城は山上に有って、城より5.45キロメートル下の土佐に館があり、常に植村が住んでいる。この所に家中町(下屋敷)があり、城下と言うところだ。
高取藩にも備えがあって、頻繁に大砲や銃を打つ。味方の先手が鉄砲をつるべ撃ちして、高取藩兵が3人死んだ。大将中山忠光が「進め 進め」と命令を下す。高取藩は小高い所に陣地を構えており、細い一本道を進みかねていた


『敵より打ち出す破裂丸に驚き、十津川の農兵崩れ立ち、一人即死一両人手負い、我先にと引き退くを頭面々大二に制す。不能、先手二進ミし久留米酒井伝次郎甲を百目玉にて打ち砕かれ、味方足場あしく備へ崩れて見へければ、敵頻二関の声を揚る。味方も関を合せて急二鐘を鳴らし、二手二分れて惣軍五條へしつしつと引き揚たり』

(意訳) そこに高取藩が発射した破裂弾が炸裂、十津川の農兵が隊列を崩し、1人が即死、1人か2人が怪我を負った。幹部は我先にと逃走する人を制止するが止められない。先手の酒井伝次郎は兜を百目玉で砕かれた。天誅組が崩れている所を見た高取藩は鬨の声を上げる。天誅組も鬨の声を合わせて、鐘を鳴らし、二手に分かれて五条に引き上げる。



⚫「義士攻高 取記事辯駁書」藤井十平

『彼党既進で城下町土佐まで之数千歩に歩く。時に我初めて砲を発す。彼の党先頭、驚愕周章狼狽、担を捨て、槍をち、退散すること、群雀の物に驚いて飛散するが如し。所詮、甲を捨て兵を引て走る者也。然れども五十歩、百歩にして止まるもの、一もこれなし。而にして逃れ去らざるもの敢えて止らざる也。狼狽逃路を失い、且つ我が弾丸を避け、林立に或いは稲田に潜伏するのみ』



⚫村田丈四郎の報告書

『二五日之夜に至り、いよいよ寄せ来るべき様子に付、本城を初め、陣屋の守、口々之固等評議區々之所、最早間近く寄来候由注進之有候に付き、有合わせの人数五六十人、街外れより一二丁先へ押出、防戦之手配致居候所、賊之物見之者四五人、不意に突き掛候を、遠山権蔵と申者、敵之槍かなぐり捨て、切払い、田の中にて暫く首を取り、外二人に手傷負為候に付、逃去候由、
然る内に夜も暫く明け離れ、敵方見候ば、白地之流旗二本押立、中には馬上之者も数人之有、大凡千人余之有可、路に充満致し、押寄来り、木砲打掛候に付、この方よりも大筒小筒打ち掛け、敵の後ろに回る之勢為し候所、元より烏合之人数、なだれをつき逃散候故、頭分の者も共崩れ致し逃去候所、中には旗を立て、人数をまとめ静々と引取候者も有之候、味方にも少し人数だに之有候は、追打いたし、誠に小勢にて、城を被取不は仕合せなる位之事にて、暫く首七つ、生捕五六十人、槍刀脇差し四五十本 、木砲 鳥銃 甲冑 陣笠様之物も少々分補致候迄にて、誠に残念に在り候』




⚫御所町吉川家の「万年帳」

天誅党は四分五裂に敗北して葛村さして逃ぐるもあり。掖上村へ逃げのびたるものは、或いは御所馬橋より大口峠を経て五条方面に走り、或いは御所町に入りしもの、南町を経て風の森に出て、五条方面に落ちたるもの。総勢256人と聞えし』







○参考文献

天誅組の研究 〈作〉田村吉永

・いわゆる天誅組の研究 P70~P72、p138

文藝春秋でしか読めない幕末維新 P126~P127、天誅組を見た話 〈作〉藤岡 長和