江戸幕府と洋式銃導入

  1. 今回は江戸幕府と洋式銃について年代順に触れます。

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(1864年、ロンドンニュース)


○始めに

  1. 一般的には、旧幕府軍戊辰戦争で刀と甲冑で戦ったように言われているがそれは違う。私は俗説ばかりで語られる幕末史を変えたいと前々から考えてきた。この論文ではその認識を正したいと思う。
  1. 戊辰戦争での敗因は両軍の装備の差ではなく、旧幕府軍の指揮官の質や士気の低さにある。決して幕府歩兵隊や伝習隊が劣っていたわけではない。


○銃にまつわる記述を羅列する。

アーネスト・サトウが書いた『幕末維新回想記』 P231には「幕府 遊撃隊の武器は長槍、短槍、スペンサー式ライフル、スイス製ライフル銃(ベッテルリ銃)、マスケット銃」とある。

山本政恒が書いた『幕末 下級武士の記録』
山本 政恒が所属する幕府軍の奥詰銃隊がミニエー銃を携行していたとある。

戊辰戦争の新視点』には榎本艦隊が小田原藩にスナイドル銃50挺とピストル20挺を贈ったとの記述がある。

『北州新話』には「総じて彼の兵は多くスペンセール・スナイヅル等、元込めの銃を用へり。しかして我が兵はミニー銃を用ふ」とある。
新政府軍はスペンサー銃、スナイドル銃を使っていたが旧幕府軍はミニエー銃を使用していた。函館戦争では装備に大きな差があったことを示唆している。


箱館戦記麦叢録』 には「松前兵毎戦敗走し 我兵皆勝。如何となれば彼兵は多くの甲冑弓槍ゲベール等なり。我兵は愈二つバンド ミニエーを携えし」とある。
松前兵が弓や槍やゲベール銃で装備していたのに対し、旧幕府軍は短めのミニエー銃で武装していた。


『谷口四郎兵衛日記』には「此時、雉子小屋ニ死ナントスルヲ、山口次郎来ノ後ニ残リ、中島登持タル七発、山口持発スル中大島走ルト云」とある。
斎藤一 (山口次郎)が七連発のスペンサー銃を中島登から奪って使っていた。新撰組も洋式に移行していたのであろう。


所荘吉の『火縄銃』には銃数取調書による予備銃の数がある。
・大手前伝習第一大隊
オランダ製ミニーが157挺

・小川町伝習第二大隊
ベルギー製鳥羽ミニー銃が120挺
ベルギー製鳥羽ミニー銃が1400挺

・御料第一連隊予備銃
鳥羽ミニー銃が1000挺

・西丸下第一連隊
船来磨きミニー銃が221挺
船来ゲベール銃が460挺
ステイン直し銃が20挺
錆色付き式銃 が144挺
和製ゲベール銃が14挺

・第四連隊
オランダ製ミニー銃が1000挺
イギリス製鳥羽ミニー銃が1000挺
オランダ製ゲベール銃が53挺
イギリス製鳥羽ミニー銃が24挺

・第8連隊
船来鳥羽ミニー銃が1400挺
船来和製取交ゲベール銃が324挺


丸毛利恒が書いた『北州新話』には函館降伏時の幕府軍の武器が示されている。

長元込銃が7挺
ミニエー銃が1600挺
スナイドル銃が31挺
7連発銃が99挺(スペンサー銃)
13連発銃が1挺(ヘンリー カービン? )
12ドイム臼砲が16門
4ポンド施条砲が3門
短ホイッスル砲が2門
24ポンド長キャノン砲が9門



ニューヨークタイムズ 1868年4月22日から
幕府軍は1865年式エンフィールド ライフル、後装式シャープスカービン、1867年式バーンサイドライフル、スペンサー銃を持っていたとある。
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(1)ゲベール銃からミニエー銃へ

①ペリー来航
1853年、ペリーが久里浜に来航した際に警備にあたったのが幕府の洋式部隊だった。下曽根 信敦が指揮する部隊は150目の野戦砲と燧石式ゲベール銃を装備していたと言われている。

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ちなみに、下曽根 信敦は高島 秋帆の弟子にあたる人である。高島から西洋砲術を取得した幕府の旗本であり、ペリー来航当時の日本では西洋砲術に最も詳しい人物の一人だった。

ペルリ提督日本遠征記 (上)には『応接所の入り口にヨーロッパ製の大砲が2門あった。両側には日本の護衛兵が小銃で武装し、銃には銃剣と火打ち石がついているのを見た』との記述がある。(大同館 昭和12年)


(2)贈り物

①ペリーは1854年の再来航時に、西洋の武器を幕府に贈っている。
贈り物の一覧にはホールライフルが15挺、メーナード銃が3挺、騎兵銃(シャープス銃か? )が1挺、いずれもライフル銃である。さらに、将軍に向けてピストル20挺を贈っている。(ペルリ提督日本遠征記)
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さらに、幕府は横浜のオランダ商人バンデルタックからミニエー銃500挺を購入している。
ミニエー銃には1挺銀28ドルの値がついていたようだ。
(日本陸軍P211 勝海舟)



◯湯島製作所

(1) 最新の武器
1855年、幕府の阿部 正弘は西洋小銃の製造を命じている。当初、幕府はゲベール銃3000挺とヤーゲル銃1000挺の製造を計画していた。

ゲベール銃は銃口から丸い弾丸と火薬を装填する洋式銃で、銃口にはライフリングが刻まれていない。一方、ヤーゲル銃はライフリングが刻まれた銃身から丸い弾丸を発射する。ヤーゲル銃は装填に時間がかかることから少数の導入に終わった。


(2)優れた武器を
①しかし、前項の計画は海外から輸入したゲベール銃によって大幅に変更された。

1855年、幕府はオランダから6000挺の雷管式 (管打式)ゲベールを輸入した。この雷管式ケベール銃は燧石式の問題を改善した優れものである。燧石式 (フリントロック)は反動が大きく、命中率が火縄銃に劣っていた。

③1856年、幕府はオランダ製のゲベールを元に1万挺の製造を開始する。雷管式ゲベールは軍の近代化に不可欠な武器だった。

江川によると、1857年に4000挺のゲベールが完成。1861年には4000挺が完成間近だという報告がある。
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また、幕府は鉄砲師の市十郎に火縄銃6000挺を雷管式に改造するように命令した。(北村 陽子氏の論文)



スプリングフィールド

(1) 入手
1860年アメリカに渡米した遣米使節スプリングフィールド銃100挺、ボートホウィスル砲3門、ライフルカノン砲1門を日本に持ち帰った。これはアメリカが日本に贈り物として渡した最新の武器である。

1855年スプリングフィールドは、メイナードテープ式雷管を採用したモデルである。メイナードテープ式雷管は湿気には強いが、雨に弱い欠点があった。
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(2)国内製造へ
1861年、江川は1855年スプリングフィールド銃2000挺とライフルカノン砲25門の製造を開始。しかし、銃身の強度不足から計画は挫折。江川の急死後に計画は中止されたと思われる。(幕府の米国式施条銃生産について)


◯フランスと幕府

①1865年、幕府はフランスから12ポンドのナポレオン大砲を16門輸入した。
②1866年、フランスのナポレオン三世はシャスポー銃2連隊分、四斤野砲12門と山砲12門、ルフォショーリボルバー20挺、アラブ馬25頭を贈っている。
③シャスポー銃の総数は諸説あるが、1866挺から2000挺の間だと言われいる。(鉄砲伝来の日本史)
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◯スペンサー銃

1868年、小野 友五郎はアメリカでスペンサー銃1000挺を購入した。価格は銃弾込みで3万4000ドル。それに加えて、銅薬莢の製造機械を4000ドルで購入している。
さらに、ヘンリーライフル300挺を1万5000ドルで購入。これは16連発のカービン銃で、銃弾込みの購入価格だ。(小野 友五郎の生涯)


○アームストロング砲
1865年、幕府の長崎奉行はグラバー商会にアームストロング砲を35門 (8万3993ドル)、砲弾700トン (9万8854ドル)を注文。アームストロング砲は1867年7月には長崎に到着していた。
しかし、グラバー商会は1868年になっても引き渡しを拒否。結局、幕府はアームストロング砲を入手できないままに終わった。(鉄砲伝来とその影響)


幕府軍の軍装

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(1865年、大阪城内で訓練する幕府歩兵)

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(1866年)

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(ブリュネのスケッチ)