時代の先駆者 高島秋帆

高島 秋帆は1798年に高島 茂紀(四郎兵衛)の3男として生まれました。高島家は代々長崎の町年寄を務める町人身分でした。

高島 秋帆は、オランダ人のスチュルレルから洋式砲術を習ったと言われています。スチュルレルは長崎の出島商館長を1823年から1827年にかけて務めた人物です。彼は陸軍の元大佐という経歴から砲術には詳しかったと考えられます。


高島 秋帆は町年寄としての特権を利用し、オランダから洋書や武器を大量に輸入しました。

1832年にはモルチール砲を1門。1834年に歩兵銃を25挺。1835年には、歩兵銃を30挺とヤーゲル銃を1挺とホイッスル砲を1門。1836年には歩兵銃を80挺注文しています。
これらを合計すると歩兵銃(燧石式ゲベール)だけでも135挺に達しますが、これらは全て私財を投げ打って購入した武器でした。


1840年、イギリスと清国との間でアヘン戦争が勃発。江戸幕府にもオランダの風説書を通して清が負けた情報が伝わります。

秋帆は日本の砲術に危機感を持ちます。そこで幕府に『天保上書』を提出しました。この上書は時の老中である水野 忠邦の目に止まり、1841年に徳丸原で演習が行われることになりました。
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徳丸原では銃隊の99人と砲隊の24人が演習に参加。幕府は秋帆が演習で使用したモルチール砲とホイッスル砲を金500両で買い上げています。さらに、秋帆は水野 忠邦から銀200枚を渡されています。(陸軍歴史)

ちなみに、徳丸原で使用した火器はゲベール銃が79挺、モルチール砲が1門、ホウイッスル砲が1門、夜戦砲 (フェルトスチューク)が2門です。(幕末における西洋火器の輸入)

1843年10月、高島 秋帆は西洋嫌いの鳥居 燿蔵に謀反の疑いで告発されます。南町奉行の鳥居は秋帆の取り調べを行った結果、秋帆は悪名高い伝馬町の獄に入れられました。

1845年、老中である水野 忠邦は、大阪周辺を買い上げる上知令の失敗から辞任。後ろ楯を失った鳥居 燿蔵も町奉行を辞任させられました。

同年、新たに老中に就任した阿部 正弘は事件の再調査を命じます。1845年、秋帆には中追放処分が下り、岡部藩(埼玉県)の安部 辰之助の元へ身柄を預けられました。


それから10年が経ちました。ペリー来航から時代は一気に開国へと傾いていきます。

1853年、韮山代官の江川 英敏は師匠にあたる秋帆の身柄を引き取りたいと考えていました。そこで、江川は幕府に嘆願書を提出します。幕府も軍の近代化のために高島 秋帆の知識を生かしたいと決断します。
秋帆は中追放処分を解除され、10年10ヶ月ぶりに自由の身になりました。


1857年、秋帆は海防掛御用取扱に就任。江川 太郎左衛門の部下として砲台作りに力を入れます。
1866年には江川 英敏の死去により講武所奉行支配に就任します。この年、秋帆は69歳で激動の生涯を終えました。






(参考文献)
・幕末における西洋火器の輸入
・高島 秋帆 (人物業書)有馬 成甫
・陸軍歴史 勝 海舟